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浄土真宗の教章(私の歩む道)・親鸞聖人の生涯

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浄土真宗の教章(私の歩む道)teachers

宗名(しゅうめい)

浄土真宗( じょうどしんしゅう)


宗祖(しゅうそ) ご開山(かいさん)

親鸞聖人(しんらんしょうにん)
ご誕生 1173年5月21日(承安3年4月1日)
ご往生 1263年1月16日(弘長2年11月28日)


宗派(しゅうは)

浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)


本山(ほんざん)

龍谷山(りゅうこくざん)本願寺(ほんがんじ)(西本願寺)


本尊(ほんぞん)

阿弥陀如来(あみだにょらい)(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))


聖典(せいてん)


●釈迦如来(しゃかにょらい)が説かれた「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』
『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』

●宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)が著述された主な聖教(しょうぎょう)
『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻末(ぎょうかんまつ)の偈文(げもん))
『浄土和讃(じょうどわさん)』『高僧和讃(こうそうわさん)』『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』

●中興(ちゅうこう)の祖(そ)蓮如上人(れんにょしょうにん)のお手紙(てがみ)
『御文章(ごぶんしょう)』


教義(きょうぎ)

阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力(ほんがんりき) によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁(えん)が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還(かえ)って人々を教化する。


生活(せいかつ)

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えにみちびかれて、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活を送る。


宗門(しゅうもん)

この宗門は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団(どうぼうきょうだん)であり、人々に阿弥陀如来(あみだにょらい)の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を伝える教団(きょうだん)である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。


親鸞聖人の生涯teachers

料理イメージ

平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。親鸞聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。

しかし建仁(けんにん)元年(1201)親鸞聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、親鸞聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。

法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。

このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。

嘉禎(かてい)元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。

弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。


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大悲山 西寳寺

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