嘉暦元年(1326年)野田城築城の年、野田四郎正勝によつて現在の西賓寺の位置に小堂が建てられ、薬師如来が安置されました. その後、四郎正勝の母が薬師堂のそばに阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来を安置しましたが、これが西賓寺の始まりであると伝えられています。 |
四郎正勝の孫である兵部正康の時、野田城が落城。 その折、西賓寺は焼け残り、14軒の村人によつて阿弥陀如来が薬師堂に移され、寺院の形をとることになりました. (寺院の形……僧が居住し、本堂と庫裡を備える) ○ 野田兵部正康の二男・孝二郎正忠が剃髪し、名を空心と改めて西賓寺の初代住職となりました。 ○ この薬師堂は、明治15年南野田村々誌に「正勝・正氏・正勝の母の三霊が薬師堂に残る」と記されています。 |
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★文明9年(1477年) 元は真言宗でしたが、8代の了西の時、蓮如上人の教化に触れて浄土真宗に転派しています.よって本堂に本尊としての阿弥陀如来を安置し、薬師如来を小堂に移しています。 (今日、小堂をはじめ薬師如来は当寺には現存していません。) ★正保2年(1645年) 16代了園の折り、本堂を焼失しこの時貴重な資料を多く失つています. 再建された本堂の瓦や釘隠し(右図)には、狭山藩の紋が刻まれており、狭山藩との深いつながりが推索されます。 ★ 平成7年(1995年) 28代元裕の時、老朽化が目立ち始めた本堂の大修復が門信徒の御懇念により成されました。お念仏のよりどころとして、末永く子や孫に伝えられていくことを念じながら・・・ |
楠木正成(くすのきまさしげ)=右写真に従って「港川(みなとがわ)の戦い」で戦死した野田城主・野田四郎正勝(まさかつ)が、生前の嘉暦元年(かりゃくがんねん)(1326)、現在の西寳寺のあるこの地に小堂を建立して薬師如来(やくしにょらい)を安置したと伝えています。 その後、正勝(まさかつ)の母が薬師堂のそばに阿弥陀堂(あみだどう)を建立して、阿弥陀如来(あみだにょらい)を安置したとあります。 これが当寺=西寳寺の起源ではないかと思われます。 |
孫の正康(まさやす)の時、野田城が北軍により落城、戦焼しました。 その折、西寳寺は幸いながら焼け残り、14軒の村人の尽力により阿弥陀如来(あみだにょらい)を薬師堂(やくしどう)に移して寺院としての形態(僧が居住し、本堂と庫裡(くり)を備える)を整えたのです。 すなわち、 正康(まさやす)の次男である孝二郎正忠(こうじろうまさただ)が剃髪(ていはつ)して出家(しゅっけ)し、名を空心(くうしん)と改めて当寺に住したのです。これが西寳寺の初代住職となっています。 この薬師堂(やくしどう)は、明治15年の南野田村々誌に 「正勝(まさかつ).正氏(まさうじ).正勝の母 の三霊が薬師堂(やくしどう)に残る」と記されています。 |
さて、当寺は元来、真言宗(しんごんしゅう)に所属する寺院でありましたが、第8代の了西(りょうさい)が住持の文明9年(1477)に蓮如上人=写真(れんにょしょうにん)が泉州堺に下向(げこう)されたみぎり、上人(しょうにん)の教化に触れて、浄土真宗に転派(てんぱ)しています。 その折、本堂に浄土真宗の本尊(ほんぞん)としての阿弥陀如来(あみだにょらい)を安置し、薬師如来(やくしにょらい)を小堂(しょうどう)に移しています。 しかし、今日、この小堂をはじめ薬師如来(やくしにょらい)は当寺には、現存していません。 ともあれ、この時より浄土真宗の寺院として住職は代々御法義(ごほうぎ)が受け継がれています。 |
その後、第16代の了円(りょうえん)の住持(じゅうじ)、正保(しょうほう)2年(1645)に本堂を焼失しています。 この時多くの貴重な資料を失っており、歴代の住職の名前(現在の住職は28代目)さえ今日に伝わっていないのは悔やんでも余りあるものがあります。 再建された本堂には、釘隠し(くぎかくし) 等に狭山藩(さやまはん)の紋(もん)が刻(きざ)まれており、江戸期(えどき)には、狭山藩と深いつながりがあったものと推測されます。 再建以来350年の歳月を経た平成7年(1995)、老朽化が目立ち始めた本堂の大修復が成されました。 お念仏のよりどころとして、末長く子や孫に伝えられていくことを念じながら・・。 |
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